天明2年と文化10年の火災にあい、寺の由緒は確かではないが、裏山に覚応阿闍梨法印の塔があったことから、もとは真言宗の寺であったことが知られます。現在の曹洞宗に改められたのは、享禄元年(1528)のことで、当地の領主青柳近江守清長が開基となり、旧南安曇郡有明村、清原寺二世、天如桂樹和尚が開山し、天文元年(1533)に寺が創立されました。末寺としては、青柳清長寺、花顔寺、関昌寺、上田市宗賀前松寺、松本市端松寺があります。裏庭に池泉鑑賞式庭園があり、「碩水」の由来となった泉が湧いている。周囲は赤松におおわれて、老杉の林立する幽玄そのもののたたずまいは昭和53年県より環境保全地域に指定されています。
綺麗に着飾ったお地蔵様が、拝観者をお出迎えしてくれます。
梅雨時期には、一面に紫陽花が咲き乱れています。
本尊
阿弥陀如来坐像は県宝に指定され鎌倉時代前期の作です。
本堂
文化10年(1813)焼失のあと、文政3年(1830)再建されたもので、棟梁は諏訪の藤原広八氏、総木造平屋建て、坪数154坪半(510平方メートル)で、入口の上り框(かまち)が松材20mの1本であることなど、当時の苦労が偲ばれます。
山門
建立に2説あり、1説は元禄11年(1698)、1説は嘉永元年(1848)とあり、その定説は確かではないが、現在の如く鐘楼と兼ねていたと思われます。総木造二階建楼門型、坪数は13坪半です。
宝筺印塔
山崎貞右衛門氏、国内の霊場を巡詣したあと法華経行願品を一石に一字を墨書し、それを台座下に埋めて塔を建てました。天明4年(1784)甲辰4月と記されています。総丈3.3mです。
開基の墓
碩水寺開基、青柳清長、頼長の墓碑で法名は龍澤院殿柳山長清大居士(1569年没)、柳庵院殿柳室浄青大居士(1587年没)、碩水寺の山号を龍澤山といい、末寺清長寺の山号を柳庵山というのも頷けます。
出山の釈迦像
明治の廃仏殷釈の折、巷に投げ出されているのを碩水寺二十世が貰いうけたもの。作者不詳なるも、鑑定によると五、六百年前のものだろうといわれています。
源平盛衰記
松本藩主小笠原家より寄贈されたもので、長方形の長箪笥、けんどん扉、総体黒塗りで各面は金蒔絵で描き、扉には、丸に三段菱紋がついています。
算額
日本古来の数学を和算といいました。従って数字でなしに図によって計算する方法です。問題の解き方を図示して額となし、稲荷神社に奉納されたもので、年月は不詳。
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長野県東筑摩郡筑北村坂北矢花山寺1044番地1 - TEL
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