常にある思いは「どうしたらもっと良くなるか」。
和気あいあいの筑北村となれ!
取材前に送られてきたプロフィールには、女性パイオニア、スーパーウーマン、活動家、農村生活マイスター、村初の女性議員の文字。自叙伝も発刊されているというではないか。いったいどれほど先進的な人なのだろうと少し気後れしていたが、現れたのは溌溂とした笑顔のおばあちゃん。80代とは思えぬ姿勢の良さ以外は、いたって普通だ。家に入るとテーブルいっぱいのおもてなしが提供された。手作りの煮豆や漬物をはじめ、坂井のいちご、おやき、お菓子……田舎のおばあちゃんの優しさがあふれ出している。すっかりと和んだ雰囲気でインタビューはスタートした。
「私は元気がいいから、主人と衝突するだろうと思われてるみたいだけど、けんかはしないの。主人は優しくてのんびり。せっかちな自分とバランスがとれているわ。一番大切な土台は家庭。家庭が円満でなければ地域の中でもうまくいかないし、社会に出てもうまくいかない。基本はそこにあると思っているの」
笑顔とともにこぼれる何気ない言葉から、パイオニアの素質が見え隠れする。これがさまざまな活動をこなす秘訣なのだろうか。筑北村とともに育ってきた滝澤さんを通して、時代を、歴史を、筑北村の成長を垣間見た。
[ 2020年3月27日更新 ]
母を通して農家に嫁いだ女性の苦労を感じた幼少時代
ずっと坂井地域(旧坂井村)で育ちました。兄と弟2人の中で育ったので、男の子と遊ぶことが多かったです。当時の女の子では珍しく自転車に乗ったり駆けまわったり。厳しい祖母にはよく「お前のような“男んば”はいない」と言われました。だからといって、女の子の遊びが嫌いなわけではなかった。母の実家は娘ばかりだったので、そちらで洋裁や編み物も教えてもらいました。
洋裁学校を卒業して半年ほど勤めましたが、兄が勤めに出ることが決まって、父から家の手伝いをするように言われ、家に入りました。今思うと、青春時代というのでしょうね。村の青年団や読書会、歌声サークルに参加していました。
読書会では、農村女性の苦労を書いた本なども読みました。実際に、織物しか知らず農家に嫁いだ母は大変だったと思います。父は頑固で厳格な人、祖母はしっかり者で家の中を仕切っていましたから、母はいつも父や祖母に従っていました。私は何も言わない母の気持ちを汲んで父や祖母に意見する子どもでしたね。
主人とは青年団や読書会の活動で知り合いました。昔からのしきたりが尊重されるなか、生活改善という民主化運動が高まっている時代。主人は進歩的な考えを持っていて、「公民館で結婚式を挙げようと思う」と。社会のしきたりや習慣に縛られる生き方がいかに無気力で無意味なものであるかなどを話しあっていた私たちにとって、公民館結婚式は、冠婚葬祭の簡素化、生活改善の一環として画期的なものでした。周囲の反対はあったものの、昭和34年11月30日、坂井村初の公民館結婚式を挙げました。
多忙な農村生活の中でも励んだ生活学校
主人の家は酪農をしていたので、農作業は少し手伝ったことがある程度だった私は、朝から晩まで忙しく働く農村女性になりました。嫁いだときは2頭だった乳牛を17頭まで増やしましたね。牧草や飼料も作っていたので子育てする暇もないほど。義父母に子どもたちを見てもらいました。義母とは22年暮らしましたが、10年ほど経ったころから体調を崩して入退院を繰り返すようになり、半分は介護の日々でした。もちろん、大変なこともありましたけど、仕事は嫌々やったことがありません。嫌な気分があっても一時的なこと。こだわらないようにしていましたね。
忙しい日々の中、同村の友人に誘われ、地域の婦人会活動に参加するようになりました。その後、生活学校に誘ってくれたのも彼女です。生活学校とは、身近な問題を調べ、話し合い、実践活動の中で解決して生活や地域や社会のあり方を変えていく活動のことです。坂井村にも地域生活学校が設立されました。当時、このあたりは各家庭で堆肥を作っていたので夏になるとハエが発生したのですが、冠着荘(温泉施設)が開業するとお客さんから苦情が出るようになりました。生活学校で専門的な知識を身につけ、科学的に駆除を行い、補助金を受けて道平地区で実験した結果、翌年からは村内各地で実施されました。生活学校は、取り上げた問題に対して行政・業界・消費者といった関係者を集めて対話集会を開きます。対話集会の元祖ともいえる活動でした。
一時期は介護のために社会活動をお休みしていましたが、昭和50年代後半から復帰しました。平成元年に東京大会で事例発表した『在宅寝たきり老人とその介護者に関するアンケート調査』は厚生省に取り上げられることとなり、のちに『高齢者保健福祉推進十カ年戦略』に発展。平成12年の、介護保険法施行につながりました。
村の女性を代表し、女性や子どもたちのために
その後もさまざまな社会活動に参加しました。県の生活学校では、時代に先駆け、輸入食品の安全性をテーマに視察や実態調査を行い、平成2年に全国大会で事例発表をしました。婦人問題県民会議では副会長を務め、女性議員を送り出すためのバックアップスクールとして開校した『しなの学校』は第1期生として修了証をいただきました。このときは、選挙に立候補するとは夢にも思っていませんでしたけど(笑)。
農村女性としては、平成5年に長野県農村生活マイスター認定を受けました。また、坂井村の農業委員に推薦され、選ばれました。女性の農業委員の誕生で世間から注目され、講演依頼なども多かったです。
講演で不在だったときに主人の同級生の村議会議員が来て、地域にも女性議員が必要だと話し「千代江さんはどうか?」と言ったそうです。主人の「できるかも」のひと言で噂がひとり歩き。周囲の期待が高まり、腹を決めました。選挙は戦いです。立って歩けなくなるほど奮闘した結果、上位当選を果たし、坂井村初の女性議員となりました。
議員になったら周りは男性ばかり。専門用語も多くてわからないことだらけでした。安曇野地域の自治体には早くから女性議員がいたので研修会に仲間入りし、勉強させていただきました。
9月までに申請しないと補助金が下りないと大騒ぎしていた時期、「社会福祉協議会の建物を」と言う村長に「一室あればいい。そんな余裕があるなら、デイサービスの建物とか、お年寄り版保育園を作ってほしい」と提案しました。そのタイミングで、翌年に全国5か所の高齢者施設を作るという情報を得た村長が獲得に乗り出し、村にデイサービスセンターが誕生しました。
議員活動においても、生活学校で身につけた「どうしたら今よりもっと良い状況が生まれるか」という考え方が常にありましたね。
自慢は人柄。暮らしやすい場所、筑北村
議員生活6年半が過ぎた平成17年、筑北村に合併。村長と議員の同時選挙が行われ、当選し副議長になりました。村が大きくなった分、議長代理で会議などに出席する機会も多く大変でした。平成21年に議員を辞職したのは、気がつけば70歳になろうとしていて、後任に道を譲ることが道理だと判断したからです。10年半の議員生活のうち6年半は副議長という大役を背負っていましたね。ふり返って見ると、周りから頼まれていろいろやってきました。若いころ、「とにかく前向きに。事は良いほうにとってやる」と言われてきたのが染みついています。受けた以上は精一杯やる。大変だったけれど、やった意味はあったと感じています。
今の楽しみは月2回のロコトレ教室※。健康のために楽しみながら続けています。何でも楽しみながらやることが大切ですよ。楽しみながらじゃないと続かないもの。
若いころは坂井から出たいと思ったこともありました。でも、今は思いません。坂井は人が素朴で、とても暮らしやすいと感じています。筑北村の自慢は人柄、かしら。素朴だし、親切だし。
合併後も地域性が残っていて、筑北村はまだひとつにはなっていないと思います。これからの筑北村は、みんなが集まって和気あいあいとできるような村になってほしいです。
※ロコトレ教室
ロコモティブシンドローム予防のための高齢者向け運動を行う教室。ロコモティブシンドロームとは「運動器の障害のために移動機能の低下をきたした状態」、つまり要介護となる状態を指します。これを予防するための運動習慣が推奨されており、筑北村では、毎月2回、第1・3の木曜日に開催しています。