ちくほくのひとVol.26小山正博さん

高齢化に伴う変化の中で何ができるか。頼まれた役割を全うしながら考えること

江戸中期より、「坂裏のそば」と呼ばれて親しまれてきた坂井のそば。山岳内陸型の気候から醸し出される豊かなそばの風味が特徴だ。
3月初旬、集合場所である『そば処さかい』の駐車場に到着すると、しっかり除雪されているものの、所々に積み上げられた雪があった。店の前に置かれた看板が見えなくなりそうな高さまで雪が積まれている。今年の冬は、どこも雪が多いらしい。
「雪はき(ほうきを使用した除雪)の回数を記録しているんですが、前シーズンは2回、今シーズンは30回。今年は本当に雪が多いですね。本当は組合のそば畑などもお見せしたかったのですが、この雪ですし、今の時期は何もないですしね」と、小山さんが笑う。
取材前に届いた資料によると、さまざまな分野で活動している人だそうだ。「積極的に活動しようと動いているわけではなく、頼まれてやることが多いです。頼まれたら断れない性格のようですね。頼んでいただけるのはありがたいことですし、結果、自分のためにもなりますから」。
小山さんからは、“長”を務める人を想像するときに思い描くイメージとは、どこか違う印象を受ける。どんな思いで活動しているのか、どんな筑北村にしていきたいのか、お話を伺った。

[ 2022年5月2日更新 ]


さまざまな活動を通して受けてきた刺激が今につながる

現在行っている主な活動は村会議員で、3期、9年目になります。ほかには筑北村遺族会会長・東筑摩郡遺族会長(筑北村が当番村)、筑北村坂井そば生産販売組合長、小学校・保育園応援団役員、シニア(老人)クラブ地区役員、読み聞かせグループ「お話さくらんぼ」、坂井ちょっとやる会。趣味では坂井地区ナイターソフトボールやマレットゴルフに参加しています。
遺族会では、戦没者慰霊祭を行っています。戦後77年が経ち、高齢化に伴って会員は減少していますが、戦争を忘れぬよう、繰り返さぬよう、語り継いでいます。
長年勤めていた会社を辞めた後、3年ほど坂北村立坂井小学校の用務員をしていたこともあって、小学校・保育園の応援団にも参加しています。子ども達が地域住民と交流しながら、昔のあそびや地域の文化を学ぶ機会になればとの思いです。
ナイターソフトボールは試合後の交流会が楽しみで30年前から参加しています。コロナの影響で活動が難しくなりましたが、坂井地域は3チームで何とか続けています。最近はマレットゴルフを始めました。練習していますが、なかなか上達しません。

そのほかの印象深い活動としては、26歳の夏、第3船に参加した『信州青年の船』があります。長野県が行っていた、交流を目的とする海洋セミナーです。県内各地の青年が集まって、2週間、船上で生活します。沖縄、香港、フィリピンと回り、現地の人たちとも交流しました。補助金もあり、村からは3名、東筑摩で合計20名程度参加したと思います。当時は海外に行くこと自体が珍しかったですし、刺激を受けました。この経験を通して見る目が変わったと思います。
また、この活動での出会いがきっかけで手話サークルに入り、20年ほど活動しました。麻績、坂井、本条、坂北の人たちと集まって勉強会を行い、聴力障害者から学び手話協力員の資格も取りました。残念ながらほとんど忘れてしまいましたけど(苦笑)。

東京での就職・進学を経て感じた、田舎の狭苦しさ

高校卒業後、大学進学のために上京しました。昼間の大学は経済的に難しかったので、まずは就職。当時は地方から1企業に150人ほどが就職する時代で、会社の寮で生活していました。
大学は就職から2年後に合格し、昼間は仕事、夜は大学に通っていました。東京の生活に刺激は受けましたが、自炊が面倒でしたね。競馬やキャバクラ通いする人たちもいましたが、私はたまに、暇つぶしでパチンコをしていました。当時は手打ちの機械でしたね。
自分は長男・跡取りでいずれは戻らなければという思いがあり、大学を卒業したら地元に戻る約束での上京。都会に憧れはありましたが、東京で家を持つのは大変だなと感じていました。

当時の坂井村は、筑北地域4つの村の中で一番人口が少ない村。山、森林しかない田舎で、東京から帰ってくると狭苦しさを感じましたが、住めば都で生まれ育った田舎の風景になじみました。
26歳で戻りましたが、そのころは就職難でした。工業系の高校・大学を出たので、それらを活かした仕事をしたいと思っていましたがなかなか見つからず、坂井村の人が起業した、本社が千曲市にある建設機械(ミニバック・高所作業車)の製造会社に就職しました。
30数年勤めていましたが、バブル崩壊やリーマンショック等の影響による不景気で仕事が少なくなり、社内研修が多くなりました。それをきっかけに、定年近い自分が辞めて若い人にチャンスを与えるべきとの思いもあり希望退職に応募し、59歳で退職しました。

そば組合の組合長として、現状に合わせた体制を整える日々

父は会社勤めをしながら米作りをしていましたから、私も父から言われるままに米作りに携わっていました。退職後もお米とそば、白菜など自家用の野菜を育てています。

5年前(2018年)、前組合長が引退された際、他役員からの推薦を受けて筑北村坂井そば生産販売組合の組合長になりました。25年前に設立された時の組合員は70軒ほど。米の減反に伴う代替作物として、大豆、小麦、そばなどが作られました。米のリードタイムは半年ですが、そばは2か月。手がかからないだけでなく、うまく育てば雑草を抑える効果もあるため荒れ地対策にもなります。収穫した玄そばを販売するにあたって、ある程度の量を集めて交渉力を高める目的もあって組合が誕生しました。
現在、実質的に動けるのは5~6人ほどになりましたが、高齢化に伴う耕作放棄地を減らすため借り手などをあっせんするとともに、そば生産者の作業の一部を請け負い、持続可能な生産体制を作っています。極力機械を導入して省力化・効率化を図ったり、シカやイノシシなどの有害獣対策を推進したりもしています。
また、地元のそば粉・小麦粉を使ったそばを提供する『そば処さかい』も運営しています。当初は村の直営としてスタートし、坂井の観光4施設(いちご園、冠着荘、農産物直売所まんだらの庄、そば処さかい)のひとつとしてにぎわっていましたが、クアハウス坂井の閉鎖に伴い徐々に来客数が減り、その後は指定管理業者として組合が携わっていました。私はいつも店にいるわけではありませんが、忙しいときにはそばを茹でることもありますよ。
近年はコロナの影響もあり、厳しい状況です。令和4年度より、新たにそば処さかいの運営を若い飲食店経営経験者に委託し、経営の刷新を図ります。

ますます交通網が充実する筑北村の今後に期待!

夫婦2人と97歳の母親、娘と孫2人の6人暮らしです。幼い孫たちとの暮らしは活気があってうれしいですが……うるさいですね(笑)。
今目指しているのは、米・食味分析鑑定コンクールでの入賞です。衰退しつつあった「地方・農業・稲作の復興」を後押しする目的で2000年より行われている日本最大級のお米のコンクールで、第10回より国際大会となり、海外でも高い評価を得ています。「自然の豊かさが残る村、筑北のはぜかけ米」をPRすべく、すでに4回挑戦しました。肥料、植え方などを工夫していますが、お米が育つのには時間がかかりますし、すぐに成果が出るものではありません。特殊な育て方をするのではなく、普通のやり方で評価をいただけるようにと思って取り組んでいます。

筑北村は、松本市と長野市の中間に位置し、交通網としてJR、国道、高速道路があります。私が戻ってきたころの最寄りインターは諏訪でしたから、当時と比べると格段の違いです。来年度には筑北スマートインターチェンジができ、ますます良くなります。冠着駅、坂北駅、西条駅と、JRの駅も充実していますし、新幹線の発着もある上田市もお隣。立地の良い場所であり、豊かな自然が自慢です。特に、冬の北アルプス山脈の景観はすばらしいですよ。これまでに何度も見てきましたが、70歳を過ぎてもナマで見ると迫力を感じます。今後の筑北村に期待することは、筑北地域の連携ですね。地域としてまとまって、より住み良い村にしてほしいです。

小山正博さん(71歳)

出身:坂井地域
職業:農業
地域:坂井地域
早期定年退職後、農業をしながら、筑北村会議員や筑北村坂井そば生産販売組合、保育園・小学校応援団役員などを務める。オレオレタイプではないのに幅広い分野において役を担当しているのは、頼まれたら断らずに引き受ける持ち前の人柄か。独特の雰囲気が漂う。

ちくほく・ほくほく体験

筑北村はみなさん心優しくて親切ですが、中にいるとわからないというか、具体的な体験が出てこないんですよね。人も減り、ご近所づきあいも減りつつあるところへ、コロナ禍で場づくりができなくなり、ますます加速したように感じます。どんどん希薄になってしまうのではと思うと残念です。

お気に入りちくほくスポット

手前味噌になってしまいますが、『そば処さかい』ですかね。私のおすすめはやっぱりシンプルなざるそばです。

このページの先頭に戻る